お客様の立場にたった家造りをしたい…決意した開業
「この家はいくらか知ってる?」
ある日、御施主様から問いかけられました。
6年間の修行時代を経て、私は次の工務店へと移っていました。
その時の言葉です。
新しい工務店では、会社側から材料の手配や細かな指示を受けて
仕事をしていきます。
間接的に聞く指示の為、図面を見て仕事をしても、
様子を見に来られた御施主様に
「これではなかった、色が違う」
と言われることが多くありました。
「話が違う」「高いお金を払っているのに」
御施主様の満足度が修行時代の工務店時代と明らかに違っていました。
そんな状況での御施主様の問いかけでした。
家の金額を聞いた私は驚きました。
どう元値を計算してもそんな金額にはなりません。その金額であればキッチンやバス、トイレなどの設備はもっとグレードを上げても良いはずです。
御施主様からの大切なお金。
私は子供の頃から両親が昼夜通して一生懸命働いてきた姿を見ています。裕福でなかった子供時代。額に汗して得たお金だからこそ、自分の為に使える…そう思っていました。
夢や希望が込められたお金で建てる家なのです。
「安くてもいい家を作ろう。お金に見合った家を作ろう。
御施主様のお金を大事に使わせてもらおう」
その思いをどんどん強くしていった私は、ついに独立を決意しました。26歳の時でした。
独立一棟目、魂を込めて造り上げた、心の家
当時の世間は不況風が吹き、
特に建設業は「倒産件数ナンバー1」でした。
両親は心配しましたが、私の決断を黙って見守ってくれました。
忘れもしない独立して最初の一棟は、50坪近くの洋風住宅でした。
打ち合わせからじっくりと御施主様と取り組み、
他の住宅現場を見に行ったり、
住宅機器のショールームを一緒に見に行ったり、
着工に入ると基礎工事から墨付け、刻みと、
大工仕事のほとんどを私が担当しました。
この頃から世間の新築住宅の壁はボードが
徐々に取り入れられてきましたが、
私がこだわったのはあくまで「土壁」でした。
「土壁塗り」は手間も時間もかかり腕も必要としますが、
土壁の住宅は家が呼吸するように心地よい空間を作り上げてくれます。私の家造りには欠かせません。
私が作る家はこのように手間がかかります。
しかし、「時間はかかってもいい家だから」と御施主様は待ってくれました。
やがて着工から6月が経ち、私が独立して記念すべき一棟目の家が完成。
家作りに関わったもの皆で、柱や床を磨き、きれいに掃除をして引渡しをしたことを覚えています。
10年毎の外装の塗り替えは必要であるものの、
3世代は住み続けることができる…それが、私が造る家。
「中村さんたちが造ってくれちゃったのだから、丁寧に使わないと」
御施主様が私にかけてくれた言葉がとても嬉しく、生涯忘れられない言葉となりました。
大工人生、それは1個のちりとりから始まった
現在300棟もの家を造り続けている私ですが、
初めての木の贈り物は母へのちりとりでした。
私は図工が大変得意な少年でした。
勉強よりも何よりも図工が大好きで、
木切れや残材で、本棚、いすなどの小物から、
やがては鳩小屋やさらには木のボートの大物まで作りあげました。
このボートは川をくだることもできる優れものでした。
そんな私からのプレゼントを 母はなかなか使ってくれないほど大切にしてくれました。
人生の岐路となる進路選択では、昼夜働く両親のためにも早く一人前になりたいとの思いから、
大工養成学校へ進みました。
15歳で両親の元を離れての寮生活でしたが、すぐに仲間もでき、1年間の養成学校時代は充実していました。
1年間の集大成で家一棟を皆で完成させた感動は今でも忘れられません。
その養成学校を卒業し、修行先として入った場所が、森光工務店でした。
森光師匠は、防府天満宮の建立にも携わった、優秀な宮大工でした。
その森光師匠から直接技術を教えてもらったことはなく、
師匠の指示によって与えられた仕事は兄弟子の姿を見て覚えました。
そして、3年目にして、初めて森光師匠から指示された「墨付け」。
「墨付け」とは裏の仕事から表の仕事へと移る、大工修行の過程の中で重要な通過点。
寸法を測り、1本1本墨を打ったり切ったり、木と木を組み合わせたりする位置を
墨により印をつけていく作業です。
この「墨付け」によって木の一本一本が鴨居や桁、梁へとつながります。
墨付けの位置を間違うと、貴重な木1本が無駄になってしまうどころか、家としての役目も果たせなくなるのです。森光師匠の見守る中、私は家一棟分の「墨付け」を完成させました。
森光師匠は、仕事に厳しい方でした。そして家作りに対する思い入れ、真剣さ。
木一本に対する姿勢。どれを取っても至高レベルの技術を持っていました。
魂を惜しみなく打ち込む、妥協の無い家作りさらに大切な人間性までを森光師匠の下で修行できたことは、 私にとって大きな幸せでした。
震災現場を見て造り出した、地震にもまけない頑丈な「ナカムラ工法」
15歳で親元を離れ、修行を経て独立。
大工としての経験も順調に積まれた頃、それは起こりました。
阪神大震災です。
大変な被害で多くの家が倒壊している映像が
テレビに映し出されます。
いてもたってもいられず、新幹線に飛び乗り近くの駅まで行き、
そこからひたすら歩いて現地へと向かいました。
そこで目の当たりにした惨状。本来家を支え、家人を守るべきはずの柱が倒れ、
その下敷きになって命を落とされた方がたくさんいらっしゃいます。
当時、木造建築は耐震性を強化していないというイメージの報道と同時に、
逆にプレハブやハウスメーカー、2×4住宅の倒壊率の低さが評価されていました。
確かに、基礎部分などの耐震性を強化していない木造住宅は倒壊していました。
しかし私が現場で見たのは、この震災の中でも、立派にびくともせずに建っている木造住宅。
この木造住宅を見たときの感動は今も忘れられません。
「大工の腕によって、こんなにも差が出てくるものなのか…」
地元に帰った私は、この経験を活かし、独自の工法を造り出すことにしました。
「住む人がずっと安心・安全に暮らせるように丈夫な家を造ろう」
そんな願いを込め、私が作りだした工法は「筋交いを入れると同時に、耐力免材を2重にする」というものでした。
私はそれほど頑丈な家造りにこだわったのです。
家造りに魂を込めて…生涯現役、お客様のための大工人生
私が考える「いい家の条件」とは、
「外観が美しく、住み心地が良くて、
住む人の命を守り、住む人がやすらげる家」
であるということです。
木の住宅には「木のぬくもり」と一言では語れない、
魂レベルでの重厚さがあります。
素材から設計、デザインそして着工。
私が建てる家は、1つ1つを丁寧に取り組みます。
それが私の仕事です。
木の住宅には思い出が残ります。土をならし基礎を作る。木を組み、
やがて棟上を迎えそこで映し出される餅まきの風景。
じっくりと丁寧に造られて行く過程そのものが思い出として残る…それが木の家の良さでは無いでしょうか。
私は誰の為に仕事をしているのか・・・と問われれば、迷いなく「お客様のため」と答えるでしょう。
伝統文化である木造建築に情熱を傾けた大工人生も、40年となりました。
最近、じっくりと時間をかけて造る家が、少なくなってきた事に寂しさを感じることがあります。
選び抜かれた素材と磨かれた技術と共に、職人の心まで一緒になった木の家は、
次の、そのまた次の世代まで受け継いでいくことができるのです。
私は今の若い人たちに、もっともっとこの木造建築の良さを知ってもらいたいと願っています。
一棟の家に気持ちを込めて御施主様にお渡しするその精神は、
子供の頃、母に喜んでもらおうと造った1個のちりとりから始まっています。
それはこれからも私の中で生き続けるもの。私の大工人生は永遠に続きます。
家造りを考えている方。ぜひ一緒にお話をしませんか?
口下手な私ですが、家造りへの思いを精一杯語らせていただきます。
そしてあなたの家への思いも聞かせてください。
一緒に考えましょう、次の世代へ語り継ぐ、あなただけの家造りを。